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シリーズ 久留米入城400年モノ語り【9】(令和3年7月1日号)

篤姫も立ち寄った府中宿

九州を縦貫する薩摩街道

 久留米藩内には、かつて薩摩街道(坊津街道)が通っていました。宿場・山家宿(現在の筑紫野市)を起点に、鹿児島の城下まで続いており、薩摩藩や熊本藩など主要大名が江戸と行き交う参勤交代にも使われた街道です。他にも、日田街道や柳川往還など現在の主要交通網が、江戸時代にはすでに整備されていたことが分かります。
 久留米藩の参勤交代は、城を出て通町十丁目から北に曲がり、百年公園の北にあった宮地の渡しで筑後川を越え、宮ノ陣町の古賀茶屋で薩摩街道に合流します。4代藩主・有馬頼元までは、瀬戸内海の海路を使っていましたが、天候に影響され、決まった日にたどり着くことができないため、6代藩主・則維からは、山陽道や東海道の陸路で江戸に向かっていました。

藩の繁栄を支える宿場町

 薩摩街道と日田街道が交差する地点に、宿場・府中宿(現在の御井町)がありました。参勤交代の大名が宿泊や休憩する本陣(御茶屋)があり、大名の荷物や手紙を預かったり、人や馬、かごの手配をしたりする商人や職人が集まるなど、人や物流、情報や文化が集う場所として繁栄しました。
 大名や幕府役人が来る場合は、事前に通知される「先触れ」をもとに、宿主は町奉行に報告し、必要な指示を受けなければなりませんでした。13代将軍・徳川家定にお輿入れした天璋院篤姫が江戸に向かう折は、薩摩街道を通り、府中宿で昼食や菓子を食べたことが記録されています。

【問い合わせ先】文化財保護課(電話番号0942-30-9225、FAX番号0942-30-9714)

久留米歴代藩主

星マーク★マークは今回のモノ語りと関わる藩主

初代 豊氏 とようじ
二代 忠頼 ただより
三代 頼利 よりとし
星マーク★四代 頼元 よりもと
五代 頼旨 よりむね
星マーク★六代 則維 のりふさ
七代 よりゆき
八代 頼貴 よりたか
九代 頼徳 よりのり
十代 頼永 よりとお
十一代 頼咸 よりしげ

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