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シリーズ 久留米入城400年モノ語り【8】(令和3年6月1日号)

命懸けで挑んだ床島用水

農民を助けたい庄屋の決意

 今から約300年前、筑後川の北側の北野町、大刀洗町、宮ノ陣町、小郡市付近は、肥沃な土地ながら、水不足に苦しんでいました。目の前を流れる筑後川は、川幅が広く、流れも早いため、水を引くことは困難でした。川をせき止め、水路を作る計画をしても、隣接する福岡藩との紛争の種になるとして、40年もの間、計画は見送られました。筑後川から水を引くことは、農民たちの切なる願いでした。
 宝永7(1710)年、大干ばつが村を襲い、飢え死にする者が続出しました。三井郡鏡村(現在の北野町金島)の高山六右衛門をはじめ5人の庄屋たちは、農民を救う決意をします。一命を投げ打つ覚悟で、工事の許しを久留米藩に要請。6代藩主・有馬則維は、これを認めました。

困難を極めた大工事

 本流にある恵利堰で水をせき止め新溝に導水します。併せて、水量調整のための床島堰、佐田川との合流地点には、水量増加用の佐田堰を造りました。「床島用水」は、床島堰から小石原川の合流地点まで4300メートルも続きます。福岡藩の激しい抗議や妨害もあり、工事は困難を極めました。
 藩から派遣された草野又六と六右衛門は、3500人を指揮します。巨大な木や石も一瞬で押し流されるだけ。失敗の連続でした。最後は、山から数十万個の大きな石や墓石を運び出し、小石は50万個の石俵にして一気に沈め完成。工事費用は銀50貫、現在の金額で6000万円もの大工事でした。

【問い合わせ先】文化財保護課(電話番号0942-30-9225、FAX番号0942-30-9714)

久留米歴代藩主

星マーク★マークは今回のモノ語りと関わる藩主

初代 豊氏 とようじ
二代 忠頼 ただより
三代 頼利 よりとし
四代 頼元 よりもと
五代 頼旨 よりむね
星マーク★六代 則維 のりふさ
七代 よりゆき
八代 頼貴 よりたか
九代 頼徳 よりのり
十代 頼永 よりとお
十一代 頼咸 よりしげ

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