トップ > 広報くるめ > シリーズ 久留米入城400年モノ語り【4】

シリーズ 久留米入城400年モノ語り【4】(令和3年2月1日号)

有馬家に嫁いだ姫たち

質素倹約に努めた島津家の晴姫

 10代藩主・有馬頼永に輿入れした晴姫は、薩摩藩9代藩主・島津斉宣の十二女。晴姫18歳、頼永16歳での結婚でした。弘化元(1844)年、藩の財政難を改めるため、夫の頼永が、江戸にある久留米藩邸内に大倹令を出すと、晴姫は絹服から綿服に、金銀の装飾も竹木製に代えます。食事は一汁一菜、女中を減らすなど質素倹約に努めました。しゅうとの9代藩主・頼徳がミカンの匂いを嫌うと、好物だったミカンを生涯口にしませんでした。
 弘化2(1845)年、頼永は、晴姫を江戸に残して、初めて国元の久留米に入りましたが、翌年25歳の若さで病死。訃報を聞いた晴姫は、直ちに黒髪を下ろし、晴雲院と名乗ります。筆写した法華経や彫刻した仏像の全てを江戸の祥雲寺にある頼永の遺髪塔のそばに埋めました。頼永の死から18年後に初めて久留米に入った晴姫は、その後、9年間を市ノ上(現在の合川町)で過ごし、梅林寺にある夫の墓前で心行くまで手を合わせるのを喜びとしました。

徳川家からお輿入れした精姫

 11代藩主・有馬頼咸に輿入れした精姫は、有栖川宮韶仁親王の第四王女として生まれ、徳川家12代将軍・家慶の養女でした。将軍直々に申し渡されたこの結婚は、久留米藩を二分する論争を引き起こします。倹約に取り組んでいる久留米藩にとって、将軍家との結婚には莫大な費用がかかるからです。費用は、7万7455両、現在の金額にすると約232億円にもなります。徳川家と親密な関係を築く縁組みで、断ることはできず半分以上を借金しました。
 結婚を言い渡されて3年後、精姫25歳、頼咸22歳で結婚。精姫を迎えるため、江戸にある久留米藩上屋敷に新御殿を建設。江戸城大奥と同じく御鈴廊下、御寝所、御化粧の間、精姫専用の門が作られました。江戸城から久留米藩上屋敷までの婚礼行列では、一対の犬張子や夫婦和合を願う貝桶、人形、蒔絵の印籠など精姫ゆかりの品が運ばれました。

【問い合わせ先】文化財保護課(電話番号0942-30-9225、FAX番号0942-30-971414)

久留米歴代藩主

星マーク★マークは今回のモノ語りと関わる藩主

初代 豊氏 とようじ
二代 忠頼 ただより
三代 頼利 よりとし
四代 頼元 よりもと
五代 頼旨 よりむね
六代 則維 のりふさ
七代 よりゆき
八代 頼貴 よりたか
九代 頼徳 よりのり
星マーク★十代 頼永 よりとお
星マーク★十一代 頼咸 よりしげ

モノ語りをもっと深く・面白く!

 元和元(1615)年、2代将軍・徳川秀忠は諸大名を統制するため「武家諸法度」を発令。幕府の許可なしに結婚することを禁じました。結婚後も、藩主は、「参勤交代」で江戸と国元を行き来します。正妻や跡継ぎは江戸の藩邸に、側室や跡継ぎでない子は国元の城に住んでいました。久留米藩は、江戸(現在の東京都港区三田)に久留米藩上屋敷があり、屋敷は2万5千坪。同じ三田にある薩摩藩上屋敷の2万2千坪を上回っていました。

▲このページの先頭へ