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シリーズ 久留米入城400年モノ語り【3】(令和2年12月1日号)

まちづくりの面影残る

高低差を利用した都市計画

 久留米の城下町は、元和7(1621)年の初代藩主・有馬豊氏から、寛文8(1668)年の4代藩主・有馬頼元までに、その骨格がほぼ完成しています。久留米城は、筑後川を背にした本丸から、南に向かって二ノ丸、三ノ丸、外郭と連なっています。
 現在の篠山町、城南町付近は、外郭に当たり上級武士の屋敷や藩の役所がありました。久留米城の外になる櫛原町、京町に上・中級武士を。荘島町、蛍川町には足軽や職人屋敷を配置。通町や中央町は、町人の居住地にし、当時は両替町、呉服町、鍛冶屋町、米屋町、八百屋町、紺屋町、細工町などと名付けていました。
 居住区の区別は、土地の高低差を利用して整備されています。本丸がある場所は、この一帯で最も標高が高い丘陵にあり、武家屋敷、町屋になるにつれ、少しずつ標高は低くなっていきます。本丸と町屋では、10メートル以上も差がありました。
 城の外には、法度などを掲げる高札場があり「札ノ辻」と呼ばれていました。柳川往還(県道23号久留米柳川線の前身)の起点で、領内の交通の要所。幕府や諸藩の役人、商いをする町人などが行き交いました。

今も昔も課題は災害対策

 歴代藩主にとって、まちづくりの一番の課題は災害対策。記録によると80件の災害のうち、火災が55%、洪水が27%、これだけで全体の8割を占めていました。当時の家屋が木造だったことや、かまどで煮炊きをしていたことで火災が発生しやすくなっていました。延焼を防ぐため、密集する建物を移転させ、防火用の空き地を設けたり、城の各出入口には水おけを備えたりしていました。
 毎年のように筑後川の洪水にも見舞われ、標高が低い町屋付近は浸水。4代藩主・頼元は、筑後川の水防工事を進めました。後の藩主も、堀の底の土砂をすくい取り水深を深くしたり、土手のかさ上げ工事を何度も繰り返したりするなど、城周囲の貯水機能を高めました。

【問い合わせ先】文化財保護課(電話番号0942-30-9225、FAX番号0942-30-9714)

久留米歴代藩主

星マーク★マークは今回のモノ語りと関わる藩主

星マーク★初代 豊氏 とようじ
星マーク★二代 忠頼 ただより
星マーク★三代 頼利 よりとし
星マーク★ 四代 頼元 よりもと
五代 頼旨 よりむね
六代 則維 のりふさ
七代 よりゆき
八代 頼貴 よりたか
九代 頼徳 よりのり
十代 頼永 よりとお
十一代 頼咸 よりしげ

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