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シリーズ 久留米入城400年モノ語り【2】(令和2年11月1日号)

全国屈指の城下町

九州のお目付役だった有馬家

 江戸時代の久留米藩は、石高が21万石で全国でも20番目、13万600人が住んでいました。有馬家による久留米のまちづくりは、元和7(1621)年、初代藩主・有馬豊氏の入国に始まります。豊氏の父・則頼は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原合戦で東軍として徳川方で活躍。その功績から、豊氏とともに大名になりました。豊氏は、徳川家康の養女・連姫と結婚し、大坂の陣でも功を上げます。徳川家からの信頼を得た豊氏は、丹波福知山(現在の京都府福知山市)の8万石の藩主から、久留米に国替えとなります。21万石の藩主となりまさに大出世でした。
 当時の江戸幕府の支配は盤石ではなく、遠く離れた九州は、筑前の黒田家、肥前の鍋島家、薩摩の島津家など豊臣系の外様大名が多く、幕府にとっては不安が拭えませんでした。豊氏が縁のない久留米に送られたのは、九州の大名たちを監視し、安定させるための政策だったといわれています。有馬家は、明治維新まで11代にわたり久留米藩を治め、治水、寺社への寄進、産業振興など現在の久留米市の礎を築きました。

70年の歳月をかけた久留米城

 久留米城は、16世紀頃に敵を防ぐ小さな城として築かれました。戦国時代から江戸時代の初期にかけて、小早川秀包や田中吉政、忠政によって整備され、豊氏によって巨大な城へと生まれ変わります。城島城や赤司城の資材を転用して改修。完成まで4代にわたり約70年かかりました。東面の城の大手口を南面に変更し、北側に堀や筑後川で区画された本丸を配置。二ノ丸、三ノ丸、外郭を拡張します。城内は、堀や土塁で防御され、上級家臣の屋敷や藩役所もありました。範囲は、南北1.7キロメートル、東西1.2キロメートル、現在の久留米市役所の北側まで広がっていました。菩提寺の梅林寺を建立し、寺院を寺町に集め、新町、三本松、武家屋敷、通町を整え、全国屈指の城下町が完成しました。この町割りが、現在の市街地の原型になっています。

【問い合わせ先】文化財保護課(電話番号0942-30-9225、FAX番号0942-30-9714)

久留米歴代藩主

初代 豊氏 とようじ
二代 忠頼 ただより
三代 頼利 よりとし
四代 頼元 よりもと
五代 頼旨 よりむね
六代 則維 のりふさ
七代 よりゆき
八代 頼貴 よりたか
九代 頼徳 よりのり
十代 頼永 よりとお
十一代 頼咸 よりしげ

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