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シリーズ 久留米入城400年モノ語り【1】(令和2年10月1日号)

 元和7(1621)年、久留米藩21万石の藩主・有馬豊氏が久留米城に入城しました。来年で400年。今に残る文化財をひもときながら、有馬の歴史をシリーズで紹介します。

有馬家前の2人の領主

市役所はキリスト教会堂

 本庁舎建設前、平成3年から4年に行った両替町遺跡の発掘調査で、鬼瓦やキリスト教会の柱跡が発見されました。この場所は、江戸時代に久留米城下町の中央部にあたり、「両替町」と呼ばれ、「御使者屋」という迎賓館のような役割の建物がありました。有馬豊氏の入城前、この地を治めていたのが小早川秀包です。秀包は、戦国の雄といわれた毛利元就の九男。13歳の時に実兄の小早川隆景の養子になりました。天正15(1587)年、久留米城に入城。黒田官兵衛の勧めでキリスト教に入信したのもこの頃です。キリシタン大名の秀包は、統治するこの地にキリスト教会堂を建設。教会の瓦には自分の出身である毛利家の沢瀉文を使用しました。秀包は、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で西軍に属し敗戦。久留米の領地も没収されました。

今に継承される田中道

 小早川家が衰退した後に筑後国の領主となったのは、田中吉政・忠政です。吉政は、関ヶ原合戦で敵軍の将である石田三成を捕縛する功績を挙げ、その褒美に筑後国を与えられました。慶長6(1601)年、筑後一国30万石余の領主になります。
 久留米城は、堀が狭く守りに弱いと判断し、柳川城を居城にしました。柳川城と久留米城をつなぐ幹線道路を整備。田中道といわれ、現在の県道23号線久留米柳川線になっています。吉政は、政治や軍事に優れ、土木や治水などで積極的な領内支配政策を進めました。筑後川の最初の治水工事は、吉政が行ったと記録されています。当時の筑後川は、長門石方面に大きく蛇行していて、洪水被害の原因の一つでした。現在の瀬下を掘削してショートカットする「瀬ノ下新川開削」工事を行いました。善導寺町から筑後川の水を引水し、高良山の下から三潴郡を横切り、山門郡の塩塚川に注ぐ大運河を計画しましたが、道半ばで死去。四男の忠政が城主となりますが、36歳で病没。後継ぎもいなかったため、田中家は断絶しました。

【問い合わせ先】文化財保護課(電話番号0942-30-9225、FAX番号0942-30-9714)

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