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第36回 じんけんの絆(平成31年1月15日号)

隔離政策が生んだ悲劇を教訓に

ハンセン病の患者だった父を持ち、県人権問題講師団講師として、さまざまな人権問題の解決に向け活動している林力さんに話を聞きました。

治る病気になってもなお

ハンセン病は、病原菌による感染症です。手足や顔にゆがみが出るため、怖い病気だと恐れられていました。
国は、当時から感染力や発病力が低いと分かっていたのに、隔離政策を強行したことで、感染しやすい不治の病という印象を植え付けました。戦後、特効薬が開発され、治る病気になったにもかかわらず、隔離政策は平成8年まで続きました。

家族も差別の対象に

父は、私が小学生の時に鹿児島県の療養所に入りました。それから間もなくのことでした。突然、長靴に白衣を着た人たちが私の家に上がり込み、そこら中を消毒していきました。
当時、国を挙げてハンセン病患者をまちから排除する運動をしていたんです。立ち入り禁止の看板を立て、物々しい雰囲気を見せることで、ハンセン病が恐ろしい伝染病であるかのように印象付けたかったのだと思います。私も発病への恐怖を感じるようになりました。
さらに、ハンセン病患者の家族ということが知られると、学校でいじめられ、地域からも村八分にされました。母と私は福岡を離れ、親戚が住む東京へ。私は差別を恐れ、周囲に「父は死にました」と言って、存在自体を隠し続けたのです。

無知こそ差別の始まり

戦後、私は教師になり、同和教育にも取り組み始めました。部落差別とハンセン病患者への差別、どちらも本人に非は無い。父や私が受けた差別と部落差別が重なって見えたのです。
被差別部落に生まれたことに胸を張る人たちと出会い、「なぜ、父を隠しているのか」と自問自答しました。何のためらいもなく、自分のふるさとや病気にかかった肉親を語れる社会にしたい。私は、今まで隠し続けてきた父のことを話し、差別解消に取り組んできました。
ハンセン病は、恐ろしい病気という誤った認識が差別をもたらしました。無知こそ差別の始まり。正しく学び、知ることがさまざまな差別の解消につながっていくと思います。

【問い合わせ先】健康推進課(電話番号0942-30-9331、FAX番号0942-30-9833)

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