トップ > 広報くるめ > 人の交流、精神の伝承 ものづくり大国の意地

人の交流、精神の伝承 ものづくり大国の意地(平成30年11月15日号)

久留米スニーカー原点は地下足袋 歴史を追い、源流をたどる

久留米絣の生みの親・井上伝、からくり儀右衛門こと田中久重、「つちやたび」と「志まや」、「ブリヂストン」。フロンティア精神は受け継がれ、全国トップシェアのものづくり企業や特定技術の先進的企業が生まれました。
久留米のものづくりの歴史と今を、「交流」と「伝承」、二つのキーワードを通して追い掛けます。

【問い合わせ先】広報戦略課(電話番号0942-30-9119、FAX番号0942-30-9702)

第1章近代化のうねり ゴム3社が作った産業化の礎

久留米はスニーカーの街と言われています。「ムーンスター」と「アサヒシューズ」のスニーカーは、全国のセレクトショップで販売され、ファッション感度の高い人々を中心に人気です。その原点は、久留米ゴム産業の火付け役「地下足袋」。大正12年、2社はほぼ同時に地下足袋を発売。大ヒット商品の誕生が久留米のゴム産業の礎を築き、世界的タイヤメーカーの誕生につながります。

ユニークな販路拡大

ムーンスターの起源は、明治6(1873)年、倉田雲平氏が創業した「つちやたび」。主に座敷足袋を作る仕立業でした。10年、西南戦争で軍用足袋2万足、ズボン下1万枚の依頼に応え、大量生産に成功。その勢いで軍需品を供給するも失敗し、無一文に。そこから本業の足袋作りに専念しました。分業制を導入し、ミシンも業界に先駆けて導入しました。
広告手法もユニーク。販路拡大の舞台となった長崎で、あちこちに「にかぎり升(ます)」と書かれたトタン看板を置きました。人々の話題になったところで、その上に「足袋はつちやたび」と付け足し、「足袋はつちやたびにかぎり升(ます)」。一気に社名が浸透しました。
大正9(1920)年。庶民の履き物がわらじや草履の時代。3代目社長の倉田泰蔵氏は、アメリカ製キャンバスシューズを見て、足袋にゴム底の貼り付けを考案。試行錯誤の末、11年に試作に成功。翌12年、志まやとほぼ同時に、日本初となるゴム底を貼り付けた地下足袋を発売しました。その後、ズック(運動靴)の製造を開始。海外にも販路を広げていきました。

働き方改革をすでに

一方、アサヒシューズは、明治25(1892)年に先代の石橋コ次郎氏が仕立業「志まや」を創業し、子の重太郎氏(後に2代目コ次郎)と正二郎氏が継ぎます。重太郎氏が軍隊に入り、正二郎氏が経営を担ったのを機に足袋専業になりました。正二郎氏は「働き方改革」も実行。当時の常識だった見習いの無休無給を廃止。職人として給料を出し、勤務時間を短縮。ミシンの導入で効率も高めました。
また、正二郎氏が上京時に試乗した自動車を宣伝カーとして購入。人々は「馬の無い馬車が来た」と大変驚いたそうです。つちやたび同様、宣伝もあっぱれ。
大正3(1914)年にはさらなる改革「20銭均一アサヒ足袋」で業界を驚かせます。サイズが大きくなるにつれて高くなっていた価格を、全サイズ統一にしました。
その後、「日本足袋」に社名変更。ゴム底の履き物の需要を見いだし、10年に地下足袋の製造に着手。兄・コ次郎が東京から持ち帰ったアメリカ製テニス靴を参考に、ゴム底を貼り合わせる手法を研究し、12年に発売しました。それまで履き物代に年18円ほど掛かっていたのが、地下足袋は1足1円50銭。半年程度の耐久性があるので年3円で済む計算に。労働者に大変喜ばれました。

世界的メーカーの出現

日本足袋の石橋正二郎氏は、日本でも自動車が大衆化すると予測し、国産タイヤの製造を着想。「良い物を安価で」「輸出で外貨を獲得し、国際収支を改善したい」との思いでした。
ハイリスクの挑戦に周囲は大反対。しかしタイヤ部門を立ち上げ、研究を開始します。正二郎氏が社長になった昭和5(1930)年4月に第1号が完成。当時、舶来品を崇拝する風潮があり、海外製品の品質とイメージを求められていたことや、将来の輸出を想定し製品名を英語に。石橋をもじり「ストーンブリッヂ」。語呂が良くないので、「ブリッヂストン」。6年に会社名となりました。
発売後、技術の未成熟さに加え、故障時の無償交換を発表したことで、創立から3年間に生産した42万本のうち10万本が返品。正二郎氏と全技術者たちは血のにじむような努力で品質改良を実行し、徐々に返品は減少。結果、商工省から優良国産品の認定を受けるまでになりました。
9年、日本足袋の隣に建設した久留米工場が稼動を開始。社名をブリヂストンタイヤとした後、26年には、日本で初めてレーヨンを使ったタイヤを発売。グッドイヤー社と技術連携して、業界トップに立ちます。63年にアメリカの大手メーカーを買収。名実ともに世界的タイヤメーカーへと成長を遂げたのです。

「お誂え向き」オーダーメードを明治に つちやたび

「履く身になって」歴史に裏打ちされた技術力

「Timewithpride.〜ひたむきに歩み続ける」をスローガンに、子どもから高齢者まで快適に過ごせる靴作りをしています。今も自社工場で生産し、品質に定評があります。昭和40年代の工場に掲げた「履く身になって作りましょう」は現在の工場でも示されています。
新たな製品開発も精力的に行い、創業以来作られた靴型は16,000種。若者の間で人気の「MadeinKURUME」と銘打ったスニーカーは、国内でもごく一部の工場でしかできないゴム圧着方法「バルカナイズ製法」で製造され、繊細なデザインやしなやかな履き心地、丈夫さを兼ね備えます。また、子どもが速く走るための機能「パワーバネ」など独自開発の技術も多く存在。久留米の本社内に企画、デザイン、製造部門が集まっているため、アイデアを具体化しやすい環境となっています。

「靴の均一価格」という新常識 志まや

「靴でつくる健康」独自の技術でサポート

靴で健康づくりに貢献を目指すアサヒシューズ。品質維持のため、国内生産に主力を置き、バルカナイズ製法も長年にわたって磨き続けています。主力商品の一つは、シニア向けの「快歩主義」。底の形状で歩く時の体重移動をコントロールする靴です。製品化には、地道な工程の改善や社員の連携強化、「良い靴を作る」という思いの共有が欠かせなかったそう。今年、累計販売数は900万足を突破しました。
また、開発に携わった社員の膝の痛みがきっかけになった「メディカルウォーク」も看板商品の一つ。歩く時、かかとを踏み込むと膝下が外側に回る「外旋運動」が起こります。しかし、その動きは加齢に伴い不安定に。そこで、正しい回旋運動を生み出すため、底面のかかと部分にスクリュー状のゴムを配し、膝の動きをサポートする形状を発案。医学的見地からも「膝の自然な動きを阻害しない」という評価を受けています。

「国を豊かに」久留米から世界へ ブリッヂストンタイヤ(創業当時の社名)

歴史と精神を感じる「マザープラント」

「最高の品質で社会に貢献」を企業の使命とし、世界26カ国に180以上の製造・開発拠点を持つグローバル企業です。タイヤに加え、免震ゴムや自転車、ゴルフクラブなど多彩な製品を供給しています。
久留米工場の主力商品は、小型トラック用と航空機用のタイヤ。小型トラックのタイヤは、耐重量性と乗り心地の両方を満たす高度な技術が必要です。また、アジアを中心に小型航空機用タイヤのニーズがあるため、久留米工場の生産ラインを増強。今後の収益につながる商品と見込んでいます。
近年は、こうした技術を応用したサービス展開も行っています。航空機のタイヤ補修方法で、表面だけを張り替える「リトレッド」という方法があります。これをバス会社や運送会社などに応用して、タイヤメンテナンスの長期契約を提案しています。 久留米工場は、同社の「マザープラント」として、企業の歴史と「創業者・石橋正二郎氏のフロンティア精神」を感じる場に。ほとんどの社員が研修で訪れるという特別な存在です。

第2章現代に受け継ぐ精神 追随を許さない。独創的な企業が続々

市内に拠点を置くものづくり企業は100社を超えます
その中には、トップシェアやここにしか無い製品を生む企業が多数
ゴム3社が牽引した産業化で育まれた先駆性と開拓精神が今の企業に伝わっています

「味を変えない」ための変化 丸永製菓

本社=東櫛原町1821
代表者=代表取締役社長 永渕俊毅
業種=アイスクリーム製造業
従業員=185人

和菓子屋だからこそ

多くの人に愛される「あいすまんじゅう」を製造・販売している「丸永製菓」の起源は、昭和8(1933)年に創業した和菓子屋「永渕製菓所」です。
35年、将来の発展が見込めるアイスクリーム事業に進出しました。
元和菓子屋としてのこだわりを見せ、「あんこや餅をおいしく食べられるアイスを追求してきました」と、マーケティング兼販売促進部長の永渕寛司取締役は言います。

あんこを固めない技術

あいすまんじゅうは、38年に販売開始。「あんこは固まるとがちがちになります。糖度など材料配合の調整や加熱方法、原料の選定など試行錯誤を続け、ようやく今のねっとりとしたあんこにたどり着きました」と開発秘話を語ります。
あいすまんじゅうにはある秘密が。「持ち手側に白い部分があります。これは内側の白いアイス。その外をクリーム色のアイスで覆っています。その違いは『空気の含有量』。白は空気を含み、柔らかでまろやか。それに対して、空気をあまり含んでいないクリーム色は少し固め。形を保ちやすくする工夫です」と話す永渕取締役。
二枚看板のもう一つ、かき氷「白くま」は、同種の商品で全国トップシェア。「おかげさまで商品名は全国に知られるまでになりました。品質が支持されているからだと思います」。

意地の張り合い

「ファンはとても敏感。原料や製法の見直しは適宜行っています。時代に合わせて配合を調整したり工程を変えたりします。『お客様が求めるおいしさを変えない』ための変化です」と言います。
果物のトッピングなど、手作業の多い商品も同社の特徴。「ものづくり企業の意地の張り合いです。他社にできないことを見せつけたいという気持ちがある。技術や製品でしか勝負できませんから」と、こだわりを守り続けています。

究極に特化した手袋 東和コーポレーション

本社=津福本町227
代表者=代表取締役社長 渡辺聡
業種=ゴム製造
従業員=170人

手袋業界で国内2位

昭和22(1947)年創業の「東和コーポレーション」は、創業者の渡辺始氏が手袋の販売業を起こしたところから始まります。その後、作業用の手袋の需要に目を向け、自社で製造するように。現在、国内で業界第2位の企業です。
43年、看板商品となる「トワロン」を発売。当時のゴム手袋といえば硬くて、ゴム臭いのがほとんどでした。トワロンは「柔らかくて使いやすい」「ゴムの臭いがしない」と評判に。同社の池本秀文広報部長は「手間がかかってもきれいにしています」と話します。臭いの原因は製造過程で使う化学薬品。しっかりと洗う工程を設け、使う人が気持ち良く使えるようにしているそうです。

要望に対応する技術力

これまでいくつもの特許を取り、成長を続けてきました。しかし、池本部長は「人口が減れば手袋を付ける人も減る。右肩下がりの中で、時代に合った高機能商品を出し続けることが重要」と今後を分析します。
「例えば、近年ネット販売が増えていますね。そうなると物流拠点が増え、段ボール整理の仕事が増える。ならばその作業が究極にやりやすくなる手袋を。ドライバーが増えるなら、安全に快適に運転できる手袋を。世の中の動きを予測して、ニッチなニーズに応えていきたい」と池本さん。状況を見通す予測力と、細かいニーズに対応できる技術が伴って初めて実現することができると言います。「技術力を伴った新しい価値を生み出さないと他に追随される。技術に裏打ちされたものであれば簡単に真似られません」。

強みを生かせる連携を

「昔ほど自分たちだけで完結できる時代ではなくなりました。いろんな企業と連携して、それぞれの強みを絡め合って、初めてこれまでに無い製品ができると思います。そこに東和の技術が生かせればと思います」。これからのさらなるビジョンを描いています。

氷も業界初も量産 アイスマン

本社=宮ノ陣3の6の23
代表者=代表取締役秋山知昭
業種=産業用製氷機製造
従業員=53人

食生活の変化がきっかけ

昭和31(1956)年創業のアイスマンは、冷凍装置の修繕業が出発点。戦後、ブロイラーの消費が増え、鳥の処理過程に必要な冷却用氷の需要も増加。ある業者から製氷機を作ってほしいとの要望がありました。そこで開発したのが、今も主力のフレーク製氷機。これでできる氷は薄く、食材の熱を素早く奪います。

ニーズがアイデアの種

代表取締役の秋山知昭さんは「海外の工場向けの仕事が成長の一因」と話します。韓国の顔料・染料工場から、クラッシュアイスを作る設備を設置してほしいと依頼があり、プレート製氷機を納めた時のこと。「1日何十トンもの氷を、人の手で製氷工場から上の階まで運んでいました。何十人もかけている作業を減らせないかと相談されて。そこで開発したのが氷搬送システム。今や立派な主力商品の一つです」と話します。
この仕事がさらに後につながります。広い工場を取り回す搬送システムを組んだ経験が、国内のスキー場に人工雪を降らせる装置につながりました。人工降雪装置は同社が全国トップシェア。秋山代表は「一つ一つのニーズに向き合って、その解決方法を考え続けてきたから、我々にしかできない製品を生めたのだと思います。ニーズが無いとなかなか思いつきません」と振り返ります。

世界初の装置を製造中

その後も、果汁をおいしいまま凍らせる技術や、塩水を使った魚の鮮度を落とさない凍結方法など、新技術を続々開発し、注目を集めています。「出てきたアイデアにすぐ取り掛かれるのが強みですかね。案外一発でできることもあって。炭酸水を凍らせる装置を開発した時がそうでした」。
取材した10月下旬、世界初の「フロンガスを使わない製氷機」が、工場で製造されていました。代わりに冷却に使うのは二酸化炭素。実現するには装置の強度を高める技術とアイデアが必要だったそうです。「人から『無理』と言われても、まずやってみるんです」と開拓者精神を見せます。

第3章源流を求めて 「人から人へ」技術獲得と拡大

久留米ものづくりの源流を求め歴史をひも解くと弥生時代、筑後川を通じた大陸との交流で技術を獲得
江戸時代には技術のあり方を変えた2人の偉人が誕生しました

弥生時代に大陸文化が

久留米を横断する大河・筑後川。有明海の満ち引きを利用して船が出入りしやすいことから、かつては水上交通の大動脈でした。そのため、弥生時代の前期から中期、内陸部にも関わらず、筑後地域には中国大陸や朝鮮半島からの移民「渡来人」が入ってきました。
渡来人が持ち込んだ技術の一つが「黒色磨研土器」。表面に炭素を吸着させて磨き、水漏れを防ぐ加工技術です。この加工が施された物が久保遺跡(城島町)から出土しています。その周辺には、井戸が掘られた痕跡も多数。鉄器や青銅器の鋳型や加工の痕跡も発掘されています。
さらに、豊前、肥後、近畿などの特徴のある土器も発見されています。久留米は、地形的にヒト・モノが行き交いやすい場所で、古くからさまざまな技術が入って来ていたようです。

技術を暮らしのために 田中久重

時は経て、江戸時代の終わり。「からくり儀右衛門」こと田中久重が通町に生まれました。東芝の前身、芝浦製作所の創業者となる技術者です。江戸時代の最高傑作の一つといわれる「弓曳き童子」や昨年市が購入した「文字書き人形」は、精巧な動きで人々を驚かせました。
しかし、久重の関心は15歳頃から、人の役に立つ製品の発明に移行し始めます。30歳代で、折り畳みろうそく立て「懐中燭台」を製作。往診の医者などに重宝されました。また、皿の油が減ると自然に補給される「無尽灯」を発明。明るさはろうそくの10倍。明かりの革命と評され、夜に帳簿を付ける商人に喜ばれました。そして50歳の頃、和時計と洋時計など6面の表示版と天球儀がぜんまいの動力で連動する「万年時計」を発明。持てる知識と技術を注いだこん身の作品でした。その後も、製氷機や精米機など、生活に密着した、これまでに無い道具を生み出し続けました。
久重の大きな功績は「技術の大衆化」と言えます。江戸時代までは、道具を上手に使う「修練」が重視され、人が道具に合わせるという考え方でした。しかし久重は、その思考から抜け出し、生活が豊かになるための道具を作りました。

弟子に広め一大産業に 井上伝

同じく江戸の終わり、井上伝は通外町に誕生しました。国の重要無形文化財・久留米絣の生みの親です。
伝は生まれつき手先が器用で、12〜13歳の頃から、織物を織って家計を助けていました。ある日、自分の着物に洗濯でできた白い斑紋に気付きます。着物を解いて、その糸を参考に新しい糸を染めて織り上げると、見たことの無い柄の織物に。絣発明の糸口です。試行錯誤を重ね、立派な斑紋を実現。これで伝の名が広く知れ渡りました。
これを機に、伝の元に多くの弟子が集まります。伝は開発した技術を懇切丁寧に教えました。弟子は見る見る増え、その結果、機織りが農村の女性の副業として定着。「筑後の村々では、女性の居る所、機織りの音が聞こえない家は無い」。久留米絣業の産地の成立といえます。
伝は晩年までに数千人ともいわれる後進を育成しました。裾野が広がったことで、次々と新たな柄が開発されていきました。

久重と伝の2人も交流があり、そこから絵絣は生まれたと言います。
この2人は、人と人との交流やつながりの中で、ものづくり技術を発展させ、後世に多くの文化を伝承してきた立役者なのです。

「知恵と技」を凝縮冊子を編集中

ゴムや機械、金型、繊維など、久留米のものづくり企業はバリエーションに富んでいます。特長ある技術やここにしか無い製品が数多くあるのが、この地域の強みなんです。
産業機械の部品など表からは見えない所に、素晴らしい技術を提供している企業もたくさんあります。まさに「縁の下の力持ち」です。そういった企業の優れた知恵と技、ユニークな取り組みなどを多くの人に知ってもらえるように、来年2月頃にものづくり企業の事例集を発行する予定です。併せて、商談会やシンポジウムも開催します。
このような冊子があると、久留米にどんな企業があって、どのような製品やサービスを提供しているのか見えやすくなり、PRしやすくなると思うんです。企業さんには販路拡大のツールにも使ってもらえると思うし、若者にも見てもらって、地元企業を知ってもらいたいです。私たちも久留米のものづくりの素晴らしさを、国や他の地域に積極的にアピールしていきます。

【問い合わせ先】商工政策課(電話番号0942-30-9133、FAX番号0942-30-9707)

時代に合ったポップな柄や商品

今販売されている絣製品は、昔なじみの物だけではありません。柄はカラフルになり、和傘やポーチ、スーツなどさまざまな製品に。若い人や絣を知らない人にも受け入れられやすい商品が増えています。手触りの良さや丈夫さといった絣の魅力はどの商品からもしっかり感じられます。

関わる人同士交わって オカモト商店野口和彦さん
時代に合った生地や製品を生み、これからも求められる物であるには、販売店と作り手が共通の理念や思いをもって、つながることが大切だと思うんです。仲卸の私たちがつなぎ役になりたいと思い、交流の会を作っています。
魅力が「伝わる」ように 西原糸店西原健太さん
絣の魅力を一方的な「伝える」から「伝わる」にしたい。そのためには、何をすべきかより何がしたいかが大切。私たち自身がわくわくできることをやろうと思っています。おもしろい製品や若者が気になる企画を提案し続けていきます。

最終章人が未来を創る 生まれるつながりまちの活力に

ものづくり産業の充実は雇用、他の産業への経済波及効果などさまざまなメリットを生む そのヒントは「新たなつながり」にあった

久留米のものづくりは、交流から生まれ、成長し、伝承されて「産業」となりました。ものづくりがまちの活力を支え続けるのに必要な「新たなつながり」が生まれています。

まちの将来を左右するものづくり産業の成長

市の人口は、減少の局面に入りました。市の地方創生総合戦略で、「しごと」を地域の活力を保つための大切な要素の一つとしています。中でも、ものづくり産業は雇用や他の産業への経済波及効果が大きいため、さまざまな立場の人や団体と連携して、企業を応援していきます。 久留米の未来に欠かせないのは、ものづくりを通した「新たなつながり」です。

新たなつながり生むきっかけに

写真は、約100年前に、トヨタの創始者・豊田佐吉氏が開発した「Y式織機」。久留米絣の織元で現役で動いています。これを知った豊田市民が、久留米市民と交流。「勝手に姉妹都市宣言」と銘打ち、地元の人や企業と親交を深めています。また久留米大学の学生が主体となった「絣フェスタ」のファッションショーには、絣デザイナーやウオーキング指導者、カメラマンなどが参加。若者が地場産業に触れ、地域とつながる機会になりました。
今回の取材を通し、多くのものづくり企業で「異業種」「異文化」との交わりを望む動きが見えました。新たな価値や展開を模索し、時代のニーズに応えようとする姿が印象的でした。
まちの歴史が裏付けるように、発展は「人」と「交流」にあります。歴史を知る。日常の中で技術や製品に触れる。さまざまな形でものづくりに関わることが、久留米の未来を支える力の一つなのです。

▲このページの先頭へ